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戦史、歴史
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191 過去の議論ボードを見ていたら、鈴二号作戦という作戦がありましたが、これはどういう作戦や計画なのでしょうか。
レイテ島に対する増援作戦というのはなんとなく解るのですが、詳細の内容が知りたいです
二号とあるからには、鈴一号作戦や鈴三号作戦なども計画されていたのでしょうか

戦史叢書を読んでみたのですが(南西方面海軍作戦とか)、詳細の内容についてはどうも見つける事が出来ませんでした。
もし自分が読み損ねただけでしたら本当にすみません
天ヶ崎

  1. アジ歴 C14020653400 参照。
    BUN


  2. 紹介ありがとうございます
    読んでみる事にします
    天ヶ崎



190 ハプスブルグ家について質問いたします。
スペイン・ハプスブルグ家は1700年のカルロス2世の死をもって断絶しています。
近親結婚が続いたことにより、王族が虚弱になってしまったことが原因だそうですが、そこで質問です。
@ スペイン・ハプスブルグと同じく近親結婚をつづけていたのに、オーストリア・ハプスブルグ家は現在も続いています。また、マリア=テレジアのように頑健な皇帝や、フランツ・ヨゼフのような長命な皇帝もいます。両家の違いはどこにあったのでしょうか?
Aカール5世を始めとして、ハプスブルグ家では下あごが突き出た顔をした人物が多かった(歴代スペイン王は全員)のに、時代が新しくなると、オーストリア・ハプスブルグでは下顎が目立たなくなります。何か理由があるのでしょうか?
PIAT

  1.  御質問に答えがつかないのは、一つは、ここが軍事の掲示板であっても、世界史の掲示板ではないということ、もう一つは、近親婚を繰り返したと言っても、そのすべての関係を把握するのが難しいということがあろうかと思います。
     ただ、御質問にあります名や王朝名は艦名にもなっておりますので、私なりに調べてみましたが、考えてみると、近親婚とはいえ、別の遺伝子も入ってきているわけです。たとえば、マリア=テレジアの曽祖父フェルディナント3世は、結婚相手のフランツ1世シュテファンの祖父でもあるのですが、マリア・テレジアの母親はブラウンシュヴァイク・リューネブルク家の出です。
     また、オーストリアのハプスブルク家の場合、マリア・テレジアが娘のマリー・アントワネットをフランス王家に嫁がせる等、各国と友好関係を結んでおりますので、スペインよりも外来の血が混じってきております。それでも、ルドルフ皇太子のように虚弱な体質の人も生まれていますが、@については、他の遺伝子がスペインよりも入る要素が強かったからというのも一因だろうと思っております。
     Aについても、メンデルの分離の法則から考えても、遺伝子上大いにあり得ることなのですが、さらにいろいろな家系の血が流れてきたオーストリアの場合、特に不思議なことではないと思われます。
     
    hush



189 ビルマの戦いにおいて質問があります。某Wikipediaでは、ビルマの戦いにおいて国民党軍が10万名戦死したとかかれてますが、この情報源はいったいどこの情報なんでしょうか?
んふぅ

誰か答えて下さい。

188 昭和17年5月のMO作戦において疑問があります
日本の敵戦力見積もりではモレスビーの守備隊は5000人とされ、ポートモレスビー攻略は第一四四連隊を基幹とする南海支隊(と呉第三海軍陸戦隊)が担当ということになっています。
敵戦力に対して上陸部隊が少なく相当苦戦しそうな印象を受けるのですが、この戦力で攻略出来ると日本が考えた理屈や根拠が解らないのです

輸送中に空襲を受けることや攻略後の補給を懸念していても、上陸後の陸戦の心配をしている様子があまり無さそうなのが気になっています
あくまで例えばですが、
モレスビーの5000人は戦闘員以外も含んでいる見積もりであって戦闘員なら倍以上の戦力比だから勝てる、みたいな感じなのでしょうか
天ヶ崎

  1.  戦史叢書「南東方面海軍作戦(1)」には、たしかに連合軍の兵力を5000人としております。しかし、その内訳の記載はなく、その真偽も含めて、委細は分かりません。もしかしたら、陸軍作戦のほうには記載があるのかもしれませんが、そちらは持っておりませんので、確認が取れていません。
     ただ、当地には飛行場があり、操縦士や整備士等がいたはずです。もし、それを含んでの数であるのなら、南海支隊と陸戦隊だけでも攻略できるという判断されたのはではないかと思われます。というのは、グアム攻略時に同支隊には兵員4886名を数えていたからです。若干の損失もあったのですが、補充兵も送られているようであり、これに数百名程度ですが、陸戦隊の人員を加えると戦闘員の数では上回ると考えらます。
     ただし、現在は否定されているそうですが、当時は攻撃3倍の法則というものがありました。これは、ドイツ陸軍の研究による経験則だそうですので、日本軍にも入ってきていると思います。したがって、海兵隊員約400名と若干の現地兵しかいなかったグアム攻略戦、ニューブリテン島全体で1400名しかいなかったラバウル攻略戦のように、3倍以上の兵力を確保できない状況となります。したがって、御質問のように陸戦の心配をしないのはなぜかというのはもっともだということになります。
     ただ、南海支隊はグアムで失った兵員は1名に過ぎず、ラバウルでも28名だけです。この結果、連合軍の戦力を過小評価し、与しやすしと考えたとしても不思議はありません。実際、7月のポート・モレスビー攻略においては、補給の途絶により悲惨な結末には終わっていますが、緒戦は押しております。
     慢心と言えば、それまでですが、上陸後のことよりも、制空権の確保されていない中での途中のことのほうが、より気にかかるということではないかと愚考致しております。
     
    hush


  2. hush様ありがとうございます。

    ただグアム攻略時の第一四四連隊の3個大隊で3000名以下ですし、山砲兵第55連隊第1大隊加えるとしても4000名に届かないと思われます。
    MO作戦時の参加数は解らないのですが、グアム戦時の南海支隊の人員より上回る事は無いと思われます。
    また暁の珊瑚海ではモレスビー上陸予定の南海支隊はソース不明ですが2000名とあり、かなり少ない印象を受けるんです。

    >ただ、南海支隊はグアムで失った兵員は1名に過ぎず、ラバウルでも28名だけです。この結果、連合軍の戦力を過小評価し、与しやすしと考えたとしても不思議はありません。
    グアムでの連合軍兵力見積もりは約1500名、ニューブリテン島でも大体同数程度と見積もっていたと記憶しております。
    素人考えでは、見積もり1500名の敵に勝った(グアムでは見積もり以下の約400名)から、見積もり5000名の敵に勝てると考えるのは不思議に見えるのですが、不思議は無いものなんでしょうか
    天ヶ崎


  3.  4886名という数字はWikipediaに載っているものであり、しかもその出典が明らかになっておりませんので、拘泥は致しません。ただ、これだけ細かい数字だと、何の根拠もなく出て来たとは思えないので、書いたばかりです。そして、南海支隊長は第55歩兵団長でもあり、歩兵団は3ヶ連隊からなりますので、その代表として抽出されてきた歩兵第144連隊は、通常編制ではなく、増強されたものであろうとは思っております。
     ところで、グアムはともかくとして、ラバウルに1500名の連合軍がいると見積もって、ほぼ同数の兵員が(全島でですが)いたわけです。にもかかわらず、ほとんど被害を受けずに占領したのならば、5000名の兵員が待ち受けていても、大丈夫だろうと思うのは、慢心かもしれませんが、当然なのかもしれません。
     ただ、1でも書きましたように、陸上よりも途中のほうが気にかかるというほうが大きいのではないかと思っております。というのは、中国で日本軍が、戦略的にはともかくとして、戦闘で優位に立てたのは、絶対的な制空権を握っていたからだと思っているからです。しかし、MO作戦の場合は、海軍主導の作戦であり、空母が引き揚げたらというような不安材料は多かったと思います。また、そのような中を、兵員を満載した輸送船で長距離移動するわけですから、陸軍側が大丈夫だろうかと思うのは、当然ではないかと思います。
     
    hush


  4. グアム攻略時の
    南海支隊 4886名
    南海支隊の歩兵第144連隊(の3個大隊) 3000名弱
    ですので何も問題はありません
    南海支隊の主戦力である歩兵第144連隊はそのくらいの兵数と書いたに過ぎないんです。

    中部太平洋方面海軍作戦(1)に記載があり、恐らくWikipediaの出典もそこかと思われます(3000名弱と書きましたが、同書には詳細な人数まで載っていたはずです)

    ただ、MO作戦で敵5000名の見積もりに対し、5000名に満たない(下手すると4000名以下。暁の珊瑚海では2000名)南海支隊で大丈夫と考えられたのは、
    グアムやラバウルの快勝の結果、連合軍の戦力を過小評価したから
    というのは本当なのでしょうか

    グアムやラバウルの快勝の結果は関係無い。仮にラバウルが1500名でなく5000名の見積もりでも南海支隊で大丈夫な感覚を持っていた
    ということは無いのでしょうか
    主張ではなく、快勝の結果の過小評価が本当なのか気になっているんです
    天ヶ崎


  5. >4

    そもそも論として、たとえ兵力が半分だろうと命令を受けたら行って勝たなければならないのが帝国陸軍なんですよ。当時敵と同数では戦えませんなどと言う日本の将軍はどこにもいなかったと思います。というか同数なら勝ってあたりまえと思われてたんじゃないでしょうか。

    それがそもそも論で、背景にはその時点で南海支隊以外に回せる兵力が無かったとか、船腹がぎりぎりだとかの事情もあったと考えられます。またそれまで一度も負けたことはないですから、今度も勝つだろうとは思っていたでしょう。ガダルカナルの例を見れば分かりやすいですよね。これは過小評価とも言えるし、経験に基いた(ある意味当然な)類推とも言えます。
    とおり


  6.  「暁の珊瑚海」が市立図書館にありましたので、借りてきました。拾い読みしたところ、南海支隊に関する部分は、なぜ、空母祥鳳が単独で運用されたか、なぜ、追撃命令を出さなかったという点に使われているようです。これは、海戦を主眼とする本書の性格上仕方のないことなのですが、このため、陸戦に向けての心構えのようなものは書いてありません。
     5でお書き戴いたようなことはあるかもしれませんが、あったとしても、そのような理由で、陸戦に関する要求の部分は、同書には収録されないと思われます。
     御質問の主旨が本書において陸戦の心配をしていないのはなぜかという意味でありますのなら、上記の理由によるものと思われます。しかし、命令を出した側が、この人数で足りたと思う根拠を時系列で出せということでしたら、私の能力を上回りますので、御期待には添えかねます。
     
    hush


  7. >5
    やはり、考えられる思われるなど類推するしかないのでしょうか
    理屈としては解らなくは無いのですが、その類推で本当に正しいのかどうかが多少不安を覚えています

    >6
    どちらかといえば、暁の珊瑚海というより戦史叢書の方がウエイトが大きいです
    南東方面陸軍作戦においてもあまり陸戦に関して心配している様子が見受けられず、連合軍の兵力を5000人も内訳などの委細はありませんでした

    >御質問の主旨が本書において陸戦の心配をしていないのはなぜかという意味でありますのなら、
    その意味も全く無いとは言いませんが、「暁の珊瑚海では南海支隊は2000名とあった」と何度か書いたように、同書では2000名と書かれていたと紹介しただけという理由の方が大きいです
    グアム攻略作戦と異なり、MO作戦における参加人数がよく解らないのも私の疑問の一つなんです
    天ヶ崎


  8. >7

    グアムからは南海支隊全力がラバウル攻略に向かったはずです(このときの輸送船9隻)。
    南海支隊の編成はご指摘のとおり4886名と戦史叢書に記載があります。
    内訳は司令部159名、歩144が2925名、砲兵・工兵など1263名、衛生468名、船舶71名です。

    ラバウル攻略後は一部がラエ・サラモア攻略に向かいましたが、それは成功した後ラバウルに戻っており、戦史叢書ではモレスビー作戦前に支隊全力が集結したとあります。ポートモレスビーに向かった輸送船は11隻ですから、ほぼ全力が向かったんではないでしょうか。確かに戦史叢書にも人数は書いてありませんが、〜がラバウルに残置したともありません。舟艇機動ならともかく、砲兵も乗ったと読むのが妥当と思います。「暁の珊瑚海」の2000名はポンと唐突に書いてありますが、歩144の全員すら乗っていないことになり、根拠が知りたいところです。

    5では「たとえ兵力が半分だろうと命令を受けたら行って勝たなければならない・・」と書きましたが、命令を出す方は2000名を5000名に当てるのは躊躇するでしょう。

    とおり



187 石原莞爾が総理大臣なら大東亜戦争は日本の勝利間違いなしですよね?






食い砲台

  1. あり得ません。

    1941年より前に総理大臣になっていれば…政敵をたくさん作ってしまって国内をまとめることができなかったでしょう。暗殺事件やクーデターが起きたかもしれません。

    1941年に総理大臣になっていれば…対米戦回避のためなら中国大陸はおろか朝鮮半島も台湾も放棄するのも仕方ないと主張している人物ですから、積極的にハル・ノートを受諾するでしょう。
    なので、大東亜戦争自体が発生しません。

    対米開戦後であれば…総理大臣が誰だろうと結果は変わりません。米国との国力差は誰が総理大臣になったところで埋められません。大東亜戦争はやれば必負、開戦してしまった時点で負けが決まっている戦争です。手を上げるのが早くなるか遅くなるかの違いでしかありません。

    おうる



186 赤穂事件において浅野長矩を取り調べたのは多門伝八郎という目付です. ここで疑問に思ったのですが目付の職掌は旗本関係なのになぜ大名である浅野長矩を取り調べたのでしょうか? 本来なら大目付の役儀なのではないでしょうか?
Ad.シュペー

  1. 当時の大目付のうち、大目付仙石久尚は討ち入り後に浪士たちが彼のところに自首に赴いているように赤穂藩と元々関わりがあったようであり、もうひとり大目付庄田安利は浅野長矩切腹の検死役正使ですから、彼がこの事件の担当者であり、その下にさらに多門、大久保の目付がつけられていた、ということではないでしょうか。


  2. なるほど! 大目付の指揮を受けていたのですね! 長年の疑問に終止符をうつことが出来ました. こちらに質問して本当に良かったです. 片さん本当ありがとうございました.
    Ad.シュペー


  3. 「多門伝八郎覚書」は全部信ずるわけにはいかない資料とされていますが、当日の取り調べ等の手順は次のようになっています。

     その日の「御目附当番」は多門・大久保であり、御目付部屋に返事が知らされたので駆けつけました。明記されていませんが同役の近藤平八郎、久留十左衛門もおそらく同席していたと思います。4人がかりで、浅野長矩を押さえつけていた旗本をなだめて受け取り、ひとまず落ち着かせました。

    http://park17.wakwak.com/~irumaq/edojo/honmaru/omote.html

     若年寄4人が合議し、4人の目付を半分ずつ、とりあえず両者の言い分を聞き取りに行かせました。浅野長矩には6人の徒目付が近くに控え、暴れたら取り押さえられる態勢でした。あらかじめ「お役目なので敬語を使わない」と断ったうえ、多門は存念を聞き取りました。4人の目付はまず大目付仙石久尚・安藤重玄に報告。その後目付は若年寄に(おそらく大目付は老中に)報告。老中たちから特に呼び出され、目付から老中に直接報告。老中から側用人・松平美濃守(柳沢吉保)に報告。

     これだけで切腹の御沙汰が出てしまったので……以下は省略として、大目付は自分で浅野長矩を引き据えたりはしませんでしたが、ちゃんと意思決定には加わっていたようです。

    http://wheatbaku.exblog.jp/tags/%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5/10/
    マイソフ


  4. なお大目付庄田安利のことを多門は書いていませんが、田村邸への護送列には目付・檜川源吾が付き添っているところ城内の描写に出てこないので、大目付も全員は登城していなかったのではないかと思います。
    マイソフ


  5. 詳しく解りやすい解説ありがとうございます. 参照サイトまで紹介してもらって嬉しかったです. 江戸城本丸御殿絵図! これもすごく良かったです. 次回映画や書籍で鑑賞する際の参考になりますよね. マイソフさん.本当にありがとうございます.
    Ad.シュペー



185 ぺリリュー島の戦い、特に米軍がぺリリュー島の飛行場を使用できなかったことはレイテ沖海戦にどの程度の影響を与えたのでしょうか?
お客

  1.  ほとんど影響はなかったと思います。
     レイテ沖海戦は1944年10月23日に始まっていますが、ぺリリュー島の戦いは、これより先、同年9月25日に始まっています。目的は、御存じのようにフィリピン侵攻の航空作戦の拠点を整備するためですが、戦いは11月25日に組織的な抵抗が終わるまで続いており、飛行場が使用できるようになったのは、その頃です。したがって、レイテ沖海戦には寄与しなかったのは、御質問の通りでありますが、アメリカ軍はぺリリュー島上陸より前の9月15日にモロタイ島に上陸、10月4日には制圧しています。そして、その10月4日には1500mの滑走路が、17日には2100mの第2滑走路が完成しています。その間には、日本軍の逆上陸もあり、モロタイ島の戦いは年内一杯かかるわけですが、この島の飛行場が果たした役割は非常に大きなものがあったようです。
     この他、ぺリリューの後に上陸したアンガウル島の飛行場も10月中に使用可能になっておりますが、こちらのほうはモロタイほどの役割は果たさなかったようです。
     もともと、アメリカ側としてはパラオの日本軍、特に航空兵力が無力化できればよいのですから、航空基地としてのペリリュー、アンガウルはモロタイほどの重要性はなかったと思われます。もっとも、モロタイでぺリリュー並みの抗戦が行われていれば、戦闘中であったとしても、モロタイ並みに大量の建設部隊を送り込んだのではないかと思われますが。
     
    hush


  2. ありがとうございます。
    お客



184 陸戦術についての質問ですが、戦史に近い質問だと思いましたのでこちらで質問させていただきます。
某アニメ映画で、米軍機甲部隊の特色的な戦術であるかのように「優勢火力ドクトリン」なる語が登場したので興味を持ちました。
しかし日本語で検索してもその映画に登場した用語の説明としてしかヒットせず、内容も「火力や物量の優位を利用する」「1両の重戦車に10両のM4で立ち向かう」といった程度です。
また英語のsuperior firepower doctrineでも検索しましたが、RTSに登場する米陸軍ドクトリンとしての語の使用しか見つけられませんでした。
そこで質問させていただきたいのですが
@superior firepower doctrineとは史実の米軍機甲部隊ないし米陸軍で公式に定められた、実在する戦術名なのでしょうか?
A実在したとして、その内容は「火力や物量の優位を利用する」「1両の重戦車に10両のM4で立ち向かう」といった物だったのでしょうか?
Ikhatovisch

  1.  第二次大戦気分を徹底するなら、アメリカ陸軍において戦車を撃破する仕事は、戦車駆逐車(M10/M36…)や対戦車砲のものでしょう。オープントップですけど。この戦車駆逐部隊が、数的優勢を確保して投入するようマニュアルに謳われていたのは本当です。それを短くsuperior firepower doctrineとまとめた表現は見つかりませんけど。

    FM 18-5 Tactical Employment: Tank Destroyer Unit (18 July 1944)

     にはこうあります。

    7. DISTRIBUTION OF TANK DESTROYER UNITS. a. The
    enemy frequently will mass his tanks for an attack and
    will endeavor to obtain surprise. The first consideration
    in distributing tank destroyers is the concentration of a
    mass superior to that of the hostile tanks. Any remaining
    tank destroyers may be attached to divisions. The
    smaller the number of tank destroyers available, the
    greater should be the proportion massed and the smaller
    the proportion attached.
    マイソフ



183 古代ギリシャ・ローマ等では将兵は出征の際にも身の回りの世話をさせるための奴隷を個人的に連れて行っています。
陸上であれば、生活する場所も荷物も融通が利くと思うのですが、船に乗らねばならない場合、奴隷のためのスペースや荷物はどう調整していたのでしょうか?

船を用意する際に引き連れている奴隷たちの分も見越して用意したのか、それとも船に乗せられない奴隷は置いていったのか、あるいはその中間または両方だったのか。
おうる

  1.  誰も答えないようなので、あくまで帝政ローマの一般的な奴隷の扱いということで御答えします。

     当時、家庭内で身の回りの世話をさせる奴隷は、相当な程度信用のおける高給雇い人であり場合によっては家族同然の扱いをうけました。

     軍人が奴隷を出征に連れて行くとすれば、個人的に交通・宿泊の手段と費用を用意できるか、正式に従卒として認められている場合です。

     ここまでで御質問の答えになっていると考えますがいかがでしょうか。

     余談ながら、これは全くの印象ですが、何らかの事情で同行できなかった場合、
    「悪いが此処からお前達だけで引き返してくれ」、「致し方ありません、若様の御武運を御祈りします」などという会話があっても不思議ではない状況だったと考えます。
    タンジェント



182 フィリピン決戦(1944年10月20日〜)の米軍戦死者の3504名は、戦闘によらない戦死者も含まれているかどうか、どなたかご教授お願いします。
アメリカ軍は太平洋戦争においては負傷者の4〜5分の1程度の数の、戦闘によらない死者を出していますよね。別に、巷で言われる様な、負傷後何時間だのの議論ではなく、行方不明者以外に3504名の他に何でもいいから死んだ人はいないのかと気になって質問しました。

パンジャンドラム

  1.  Wikipediaにあるレイテ侵攻以降のフィリピン作戦でのアメリカ軍の戦死者総数は1万6303人となっており、御質問にある数字と随分と違っているようですが。
     https://en.wikipedia.org/wiki/Philippines_Campaign_(1944%E2%80%9345)
     なお、残念ながら、アメリカ軍の戦死者の定義が分かりませんでしたので、その中に事故死者や負傷後の死者を含んでいるかどうかは分かりません。
     
    hush


  2. 失礼しました、レイテ島決戦の話をフィリピン決戦と勝手に書いていました。
    レイテ島決戦の話です
    https://en.m.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Leyte

    沖縄戦では12520名戦死とよく日本では言われますが、病死者や事故死などあらゆる理由による死者は20195人です。
    これと同様に、レイテ島における米軍戦死者3504名及びフィリピンにおける16303名には何か裏があるのかと気になってしまいます。
    パンジャンドラム


  3. レイテ島決戦だけで見れば不明なものの、フィリピンの戦い全体の記事を見せてもらったところ、79104+ dead and woundedとあり、55531woundedとあるので、23573+程度が死者だと結論しましたので半分解決しました。
    視野を狭めるあまりに確認が疎かになって失礼しました。
    フィリピン軍も数千-数万単位で死者を出している様ですし。
    日本軍の43万人はあれ以上増え様がないレベルですが…
    パンジャンドラム


  4. 沖縄の12520は陸海軍と海兵隊の死者行方不明者の合計ですが、陸軍および海兵隊の兵士で輸送船と共に沈んだ人数が含まれないため総死者数との間に大きな開きがあります。
    レイテの戦死3504は陸軍のみで出した損失です。フィリピン戦全体の死者数は陸軍のみと海軍を合わせた数字の二通りあります。16303は1のリンク先にも書かれていますが陸軍のみです。
    expery


  5. 総合的に見てもやはり沖縄戦より死者は多いんですね。
    ところでフィリピン決戦では海兵隊はいませんかね…?
    米海兵隊はタラワ島の戦いや硫黄島の戦いでは先陣をきって敵前強襲した海兵隊ですが、やはり損害も多くつくという印象です。
    あと、フィリピン軍の損害も知りたいですがなかなか分かりません
    むしろこっちの方が多いと思うんですが、なかなか…

    パンジャンドラム



181 田中徳祐の『我ら降服せず―サイパン玉砕戦の狂気と真実』は資料としてどのくらい信用できるのでしょうか。
浜垣容二の『B29に乗った少年―サイパン玉砕』なんかとはずいぶん雰囲気が違うので気になったのですが…
お客

誰か答えて下さい。

180 大日本絵画社のタイガー重戦車大隊記録集1の中で、501重戦車大隊は1945年1月13日リソウ”付近の赤軍との戦闘で、ほぼ全滅したことが書かれています(P87、88)。IS2と対戦車砲の待ち伏せ攻撃。大隊はほぼ全滅するも、敵戦車50〜60両を撃破等の記述があります。この戦闘について、より詳細な状況を知りたいと思っています。(リソウ”の正確な位置、相手の赤軍部隊名、待ち伏せなど具体的な戦闘の配置や推移状況等・・・)この本の記事以外の情報をお持ちの方がおいででしたら、教えていただければと願っています。宜しくお願いいたします。
飛行機猫

  1.  https://en.wikipedia.org/wiki/501st_Heavy_Panzer_Battalion
     こちらのウィキペディアの記載からいくと、リソウのスペルはLisowですので、Google mapでリスフと表記される場所のようです。
     その他の点については門外漢ですので回答は控えさせていただきますが、Leutnant Oberbrachtで検索すると、いろいろと出てまいりますね。
     
    hush


  2.  日本語ならば『ティーガー・無敵戦車の伝説』下巻30-32pに記載があります。英語だと、http://www.panzerwrecks.com/Der-Tiger-Vol-1-schwere-Panzerabteilung-501.htmlが良いと思います(これは持っていないのですが、この出版社の本はどれも素晴らしい)。
    バツ


  3. hush様 バツ様 情報有り難うございます。
    1、グーグルアースで早速Lisowを探し当てて、地勢を見てみました。Lisowは小さな町で、周囲は森林が多い平原ですね。それで広大な平原ですが、交戦距離は意外に取れない地勢かなと・・・防御側に有利かなと思いました・・・。どうやら戦闘は、この町を守る赤軍と、奪回を狙う独軍との間で行われたもののようですね・・・。
    2、Leutnant Oberbrachtで検索するとかなりの情報が出てきました。ソ連側からの情報も豊富にあって面白そうなので、英語ですが無理をして・・・これから読んでみようと思います。
    3、『ティーガー・無敵戦車の伝説』は未入手ですので、残念です。機会があれば入手して読んでみたいと思います。
    4、http://www.panzerwrecks.com/Der-Tiger-Vol-1-schwere-nzerabteilung-501.htmlは、2の資料をまず読んでから当たってみたいと思います。
    5、2の資料の中でも触れられていますが、この戦闘は、タイガーI及びIIとIS2がかなりの規模で激突した戦闘として、海外では注目されているようです。私もそこに興味を持ったのですが、実際には赤軍の戦闘の主力はT34/85のようにも書かれているようにも思えます。ともかくこれから一通り読んでみます。有り難うございました。

    飛行機猫


  4. 1、資料を読み進んでいますが、私の誤認が次第に明らかになって来ました。手元の資料では独側の参加兵力は、501SPzAbのタイガーI23両、タイガーII27両、16PzDvのパンター13両などですが、赤軍側は、61親衛戦車旅団のT34が65両、Is2は5両程度だったようです。他にSU100がいた可能性も示唆されています。ですからタイガーIIとIs2の大規模な激突と言うものではなかったようです。しかし少なくとも独軍は、当時の最強兵力での戦闘だったことは間違いないと思います。
    2、リソウの集落での待ち伏せ時の射撃開始距離は150〜600mとの記述があり、この距離では、さしものタイガーI,II共々、85mm、120mm対戦車砲の直撃に抗甚できない?
    飛行機猫


  5. 1、プリントした手元の資料(Tiger Almageddon near Lisow)では、おそらくロシア側からの資料だと思いますが、戦果と損失は以下になっています。
    戦果(全損遺棄車両)タイガーI 7両、タイガーII 5両、パンター 5両擱座後回収車両 不明/自軍損失 全損 T34 4両、擱座後回収 19両となっています。(他資料では数字は異なるものもある・・・)
    これは少なくとも独軍側の「敵戦車50〜60両撃破」の数字とはかなり違うという気がしました。やはり戦車戦も、航空戦と同じように戦果誤認はかなりあるようで、両軍の戦果/損失表の数字を突き合わせて最終判定が必要だと思いました。特に戦車の場合は、擱座後回収修理復帰車両の問題がありますからなおさらだと思いました。
    2、記事を読んでみますと当日は独軍側はリソウの集落外縁部で近距離からの待ち伏せ攻撃にあった後、集落内や、その周辺での赤軍戦車(大半はT34)との格闘戦に引き込まれたようで、タイガーの長射程、重装甲のメリットを封殺される形で混戦に入り、機動力の優れるT34に撃破された・・・戦いの推移はそういう感じの印象を持ちました。両軍とも大隊長、旅団長搭乗の戦車も撃破され、両者とも戦死ということですので、激しい戦闘だったようです。
    飛行機猫



179 「クレシーの戦い」のことで伺います

1・フランス騎兵は密集するような隊形で攻撃を行ったのですか?
それとも横一列で攻撃を行ったのでしょうか?
一般に騎兵の突撃はどのような隊形で行われるものなのでしょう?
映画「ワーテルローの戦い」では確かフランス騎兵がほぼ横一列で攻撃していたかのような記憶があります。

2・この長弓による戦法はその後ヨーロッパ諸国に波及したのでしょうか?
相当な腕力が必要されるとはいえ、これほどの大戦果を上げたのですから普及して当然では。
イングランド人にできて他のヨーロッパ人にできないことはないと思うのですが。

3・フランス軍は逆V字型陣形を正面からではなく、左右または回り込んで後方から突撃するという選択肢はなかったのですか?

4・長弓(もしくは普通の弓)は防御戦においてのみ効力を発揮するものでしょうか?
クレシーの戦いではジェノバ人は弩を発射しながら攻撃前進を敢行し失敗しています。
他にも弓兵が弓を放ちながら攻撃前進するという戦例はあったのでしょうか?

5・wikipediaによるとフランス軍は十五回も突撃を敢行したが全て失敗に終わったそうです。
このように何段階にも分けて突撃を敢行するのは何故ですか?
全軍を上げて同時攻撃を行えば敵の矢に当たる確率が大きくなるでしょうが、確実に敵の布陣に到達できると思うのですが如何でしょう?
映画「ワーテルローの戦い」では確かフランス騎兵の全軍による一斉攻撃が行われていたかのような記憶があります。

以上 よろしくお願いします。
台場

  1. 回答がまだないので呼び水として

    1.
    この時代はいわゆる封建制度の軍隊なので、特に騎兵は封建領主がそれぞれの部隊が集まって「フランス軍」となっています。従って整然とした横一列の騎兵突撃ではなく、封建領主の部隊が単独ないし複数集まった集団で動きます。 
    もちろん、最初の領主が動いて、つられて他の領主が動き出し、騎兵の速度が速歩・駆歩・襲歩と増していくうちに結果的に横一列になる場合もあるでしょうが、整然とした横隊には成らなかったと思われます。
    また、この当時は耕地が大規模化しておらず、作物の成長具合などの条件の違いもあり、垣根などの障害物があったはずです。その意味でも横一列の騎兵突撃は難しかったと思います。

    2.
    長弓は平民から編成され訓練に時間が必要とされています。従って長弓部隊を編成するためには平時から平民を集めるシステムと兵が損耗せずに蓄積できる平時が必要です。兵損耗のリスクと時間とコストを考えると、長弓兵よりもクロスボウを傭兵で戦時に雇う方を選んだ国が多かったという事ではないでしょうか。

    3.
    対戦図を見ると、英軍右翼は川と森と集落があり迂回には向きません。いずれにせよフランス軍は昼に到着し、攻撃を翌日まで待たずにそのまま攻撃していますので、そのような作戦を立てる余裕は無かったのではないかと推測します。

    4.
    詳しくは知らないのですが、盾を用意して前進する戦例は見た覚えがあります。

    5.
    1と同様の理由で、総指揮官が命令一下で部隊を有機的に動かすことが、この時代には困難でした。また大平原ならともかく土地条件が一様でないので、騎兵突撃のコースはある程度絞られていますので、一斉に動くことは困難かと思います。
    また騎兵の槍は一回使うと取り換えが必要になる場合が多く、15回の突撃というのも、別々の部隊ではなく同一部隊が後方に下がって槍を従兵から補充し再度突撃したものが含まれているのかもしれません。


    以上、ご参考になれば幸いです。

    いぎし ちじ


  2.  欧州の事柄について日本語版Wikipediaに首をかしげる記述があった場合、交戦国語版のWikipediaをまず参照されることをお勧めします。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/BattleofCr%C3%A9cyVisualisation.svg

     英語版「https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Crécy」によりますと、

    the French cavalry charged the English ranks, however, the slope and obstacles laid by the English disrupted the charge.

    The French cavalry made repeated attempts to charge up the slope, however with each successive wave more losses were sustained.

     となっております。また、イギリス軍の布陣位置については

    The position was protected on the flanks by the River Maye to the west, and the town of Wadicourt to the east, as well as a natural slope, putting cavalry at a disadvantage.

     と書いてあります。現代のグーグル地図で見てもクレシー南西には森が広がり、軍の移動に適さなかったことは想像できます。また東にはワジンクールの街が攻撃の邪魔となります。狭い攻め口、さらに高低差は攻め上るフランス軍に不利という状況で、先頭の騎兵が突撃を繰り返したものと思います。


    マイソフ


  3. いぎし ちじさん 返信いただきありがとうございます。

    騎兵の突撃形態も社会制度の影響を受け様変わりするということですね。
    そして、長弓部隊はやはりイングランド特有のこと、迂回攻撃は作戦計画の不備で実現せず、繰り返しの突撃は地形の条件と槍の交換という制約がもたらしたもの、
    となるわけですね。

    マイソフさん 返信いただきありがとうございます。

    ご指摘の通り、地形の障害、特性に照らして考えるとフランス軍の突撃が簡単にはいかないことが頷けます。
    戦場の画像は保存いたします。
    台場



178 いわゆる“マニラ湾空襲”の詳細について
レイテ沖海戦の前後に何回かあったようですが第何次まであるのでしょうか
お客

  1.  何を以って「マニラ湾空襲」とするかが分からないと、回答のしようがないと思われます。
     たとえば、マニラ湾の艦船を攻撃したものだけなのか、マニラ湾周辺地域も含めた空襲かによって違ってくるからです。
     また、「年表太平洋戦争全史」等の年表類を紐解くと、いくつか記録されていますが、小規模なものもあります。どの程度の規模のものまで含むかということが分からないとと思っております。
     もっとも、航空機関係は不得手ですのでよく分かりませんので、アメリカ陸軍航空隊によるものは存じません。ただ、アメリカ海軍関係のほうは
     http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron.html
    で、非常に詳しいものが公開されております。
     そちらで、Manilaなり、Manila Bayなりを検索されてはどうでしょうか。
     
    hush


  2. ありがとうございます。
    お客



177 第四次中東戦争でイスラエルの反撃が失敗したらイスラエルは核兵器を使用したでしょうか?
那珂ちゃん

  1. そのような、あからさまに回答が出ない質問は議論ボードにお願いします。
    P-kun



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